2011年12月アーカイブ

街道を行く10 羽州街道・佐渡のみち「街道をいく」を読み始めてから?年。ようやく10冊目。

街道をいく10は、「羽州街道・佐渡のみち」です。週刊朝日1976年10月22日号~1977年1月1日号掲載。

 羽州街道は、山形県の真ん中を南北に通っている道で、天童、山形、米沢があります。

 米沢は、関ヶ原以後、120万石から30万石に減らされた上杉家の領地でした。同じ境遇の毛利長州藩が、幕府への怒りをずっと受け継ぎながら、地道に産業振興に成功し、明治維新の立役者になったのと比べると、米沢藩は、江戸時代を通じて貧しい藩だった。

 その名残が、米沢の屋敷囲いや着物などに残っていたらしい。大河ドラマの主人公にもなった直江兼続は、一代で絶家したが、上杉家は幕府の意向を恐れ、江戸時代を通じて墓石もなかったらしい。直江の家来の与板衆といわれる人たちが密かに供養してきて、明治時代になってようやく墓石ができたという話。

 割と話題に乏しい?羽州街道に比して、金山を擁した佐渡は話題が豊富。
 まずは小比叡騒動。慶安5年・1652年の辻籐左右衛門の反乱事件。幕府直轄の佐渡は悪代官や役人が当たり前。その下に、下々のことをかんがえてくれるやさしい侍がいた。これが辻籐左右衛門。

 この評判が同僚の妬みを買い、干されてしまった。江戸に訴えようとしたがかなわず、切腹を命ぜられ、ついには、一族郎党ほか60人が寺にこもり反乱を起こし、最後は皆自決または刑死したということです。
 まるで「水戸黄門」に出てくる話ですが、現実には「黄門様」はいなかったようです。

 ほかには、佐渡金山を充実させた幕府官僚の大久保長安。彼の死後、大量の金を隠し持っていたことがばれ、遺子7人は断罪、お家断絶。
 江戸最後期の佐渡奉行、川路聖謨(としあきら)。幕府の名官僚であり、赴任各地から母親宛に日記形式で手紙を送っていた文章家。明治維新の江戸開城に際し、「幕府に殉じ」ピストル自殺を遂げた。
 佐渡金山で働かされた無宿人たち、などなど。

 佐渡はいったことがありますが、「お役人」視察だったので、記憶はあまりありません。せめてこの本を読んで勉強していれば、印象は変わっていたでしょう。

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