街道ゆく第7巻は、甲賀と伊賀の道、大和・壺坂みち、明石海峡と淡路みち、砂鉄のみち。週刊朝日1973年5月から7月、1974年12月から5月連載されたものです。
まず、印象に残ったのは、「大和・壺坂みち」で取り上げられている高取城とその城主であった植村家のこと。
徳川幕府のなかでも古参の家柄だった植村家だが、2万5千石の小大名にしかならなかった経緯がおもしろい。
家康が天下を取る以前の徳川家で、主君や関係者に凶事があった際、植村家の当主が偶然その場に居合わせることが多かったらしい。
その植村家の居城である高取城は、標高583mの山城で、現在は石垣しか残っていないのだが、2万5千石には分不相応に壮大な規模だったようだ。
石垣はかなり残っているようで、Web検索すると相当の記事や写真が見つかる。なかでもおもしろかったのは、CGで再現された高取城だ。奈良県の山の中に、こんなすごい城があったのは見物だったろう。
「砂鉄のみち」は、この巻の白眉といえる。出雲や美作という中国山地の中で、砂鉄から鉄を精錬する製鉄業が古代から盛んだった。
その跡をたずね、朝鮮半島から渡ってきた人たちがどのような形で日本に製鉄技術を
もたらし、盛んになっていったか、に思いをはせる。
「山林一町歩で、鉄が10トン」つまり、鉄を作るには膨大な森林資源が必要な古代の製鉄。中国山地のほとんどの山を所有していた?という、明治期まで製鉄業をしていた田部氏の話。
製鉄に必要な山林が豊富でなおかつ復元しやすい日本では、鉄生産が増え、一般農民まで鉄製農具が普及し、山林が復元しにくい中国や朝鮮半島にくらべると、生産力が上がり、必然的に商品経済が旺盛な社会になった。
明治期以後の日本の発展と、他のアジア地域の停滞を考えるときに、この鉄の生産による社会状況の違いが、どのような役割を果たしたかについて、司馬遼太郎は非常に興味を持っていたようだ。
なお、この巻からPDF化したものを読んでいます。これからの読書はほとんどPDF化したものを読んでいくことになるでしょう。