街道をゆく8は、熊野・古座街道、豊後・日田街道、大和丹生川(西吉野)街道、種子島みちを旅している。週刊朝日1975年6月~1976年1月連載
熊野・古座街道では、和歌山半島の紀伊半島南部山岳地帯を旅しながら、日本古来の習俗としての「若衆組」に興味をもちいろいろ考えている。
若衆組は、数え15で加入し、妻帯とともに退会する。主な目的は共同体の祭礼や、若者の婚姻誘導(いわゆる「よばい」のしくみ)。若衆組に入ると、両親から離れ、組の中で生活する。「若衆宿」という独立の建物があったり、相当の公的な宿で生活したらしい。
司馬遼太郎は、西南戦争まで続いた鹿児島の「郷中」もその一種と考えている。若衆組といい郷中といい、ある面では大人たちが押さえきれない面があったようで、西南戦争から太平洋戦争までの、日本の軍拡の流れにも影響を及ぼしたと考えている。
熊野・古座街道を旅しながら、この若衆組に関する証言などを得たかったようだが、この当時すでに実際に若衆組を体験した年齢層の方はいなくなっていたようだ。これは、大和丹生川街道もほぼ同じような旅。
豊後・日田街道は、大分空港のある国東半島から由布院、日田の旅。
別府湾の付け根部分にある日出(ひじ)という城下町は、木下姓の城主がいた。徳川家康が北の政所(ねね)を味方にして関ヶ原で勝ったことから、ねねの兄である杉原家定(木下を名乗っていた)を大分の日出(ひじ)2万5千石に配したらしい。明治維新までつづいたようだ。ねねのおかげで豊臣は滅ぼされ木下は生き残ったのである。
由布院は私も2度訪れた。もちろん温泉が目的だが、爽やかな高原地帯の温泉郷で癒やされた。ちなみに、由布というのは、昔の言葉で、木の皮から繊維をとりだした布のことだそうだ。院は、奈良時代の官設倉庫のこと。なるほど・・。初めて知りました。
九州に院が付く地名が多いのは、太宰府の統括力と強さを表しているのだそうな。
他に、元の来島水軍の久留島氏が山奥の豊後森に移されていたこと。小京都と呼ばれる日田の鵜飼いや、朝鮮から連れてこられた陶工高取八山の窯の話など。