街道をゆく11 肥前の諸街道

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 街道をゆく11 肥前の諸街道  1年ぶりの「街道をゆく」は、11 肥前の諸街道です。週刊朝日1977年4月~8月連載。内容が大変豊富でした。

 「蒙古塚・唐津」では、まず蒙古塚を見に行くことで、文永の役(1274年)や、弘安の役(1281年)の蒙古軍や元帝国の仕組みを考えます。

 「松浦」という地名は、魏志倭人伝に出てくる末羅国のこと。「羅」という文字は、国をあらわすことばではなかったかと考え、釜山近辺に「加羅」があり、のちにカラ、韓、唐に発展してゆくとして、北九州と古代朝鮮の関係を考える。

 平戸では、オランダ商館や英国商館のあとを訪ね、長崎以前の平戸が、ポルトガルやオランダなどとの海外貿易の一中心であった時代を考える。

 1600年ウイリアム・アダムス(三浦按針)の載ったオランダ船リーフデ号が日本に漂着。慶長14年(1609年)平戸にオランダ商船入港。その年から1641年に長崎出島に移されるまで平戸は、長崎以前のオランダ貿易の拠点だった。また、平戸は江戸時代山鹿流兵学の家元で、吉田松陰もこの平戸で兵学を学んだ。

 明末の海賊、王直は、平戸に本拠地を置き、平戸が戦国初期から江戸初期まで101年間海外と接触した契機となった。

 三浦按針の1年半に渡る苦難の航海。家康との関係。東京八重洲の地名は、三浦と一緒に来たオランダ人ヤン・ヨーステンの名前から→耶揚子(やよす)→八重洲となったことなど。

 「横瀬・長崎」では、平戸の松浦氏がキリスト教に改宗しないので、ポルトガルと争いになり、ついにポルトガルは平戸から出て行く。最初は、横瀬、次に福田、最後に長崎と移転。

 当時長崎を支配していたのは大村家の家来の長崎氏。長崎は1570年に開港。1580年にはイエズス会に長崎を寄進! この頃長崎は西洋の町になっていた。秀吉の切支丹禁制により終了。もしかしたら長崎はマカオのようになっていたかも。

 この時代から江戸時代にいたるまで、日本では金と銀とでは金が安かったので、西洋諸国は、日本から安い金を持ち出して巨利を得続けていたという話。

 そのほか、南蛮船カラヴェラ船(3本マストの船)の衝撃は、ペリーの黒船と匹敵する。1609年最後のポルトガル船の悲劇。南蛮流外科を日本にもたらしたルイス・アルメイダ。傷治療と消毒、蒸留酒の関係。今で言う赤十字的な慈恵院の存在。1620年にすべてのキリシタン遺構・遺物がこわされ、長崎には南蛮時代のものがなくなった、などなど。

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