街道をゆく33 白河・会津のみち 赤坂散歩

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街道をゆく33 白河・会津のみち 赤坂散歩
週刊朝日1988年9月~1989年3月連載。司馬遼太郎の旅を追っているので、本来なら12巻目ですが、現在放送中の大河ドラマ「八重の桜」に合わせて読みました。

 「白河・会津のみち」では、まず平安時代の貴族たちが陸奥(みちのく)、奥州に対してもっていたあこがれのようなものを理解しないと、彼らの詩的気分がわかったと言えないとして、源融(みなもとのとおる)、清少納言から芭蕉まで引き合いに出している。

 奥州の入口である福島県は面積が岩手県に次いで2番目に広い。震災以後たびたび目にする浜通り、中通り、会津盆地の3つの地域に分けられる気候風土の違い、人情の違いなど。

 「白河の関」というのは平安期以前のものと、それ以後のもの「境の明神」がある。グーグルマップで場所を確認した。外様大名丹羽長重が白河に配置された経緯。平安期に近くで黄金がとれ、それが天平文化にどのような影響を与えたのかなど。
 南朝方の武将結城宗広のこと、幕末うまれの女流画家山下りんのイコン画のことなど。白河は小さい街だが結構話題がある。

 会津では、まず徳一というお坊さんのこと。会津地方にいながら平安初期に最澄や空海と仏教大論争を繰り広げた日本最大の論争家であったとしている。江戸時代の宿場景観を残す大内宿。会津若松を作った蒲生氏郷のこと。戊辰戦争で負け青森に強制移住させられた会津藩のこと。孝明天皇の宸翰を一生身につけていた松平容保のこと。

 新潟を除く東北地方には行ったことがなくいつか行きたい場所の第一候補です。

 「赤坂散歩」では、「溜池」の由来。名前の通り江戸時代までは人口の池だった。作ったのは広島の浅野家。秀吉の妻ねねの妹が嫁いだ先で豊臣縁故だが、関ヶ原では家康に味方し、広島で明治まで続いた。江戸城の大拡張工事の際、家康の役に立ちたいということで堀として「溜池」を作ったらしい。つまり生き残りのためのご機嫌取りだったわけだ。

 この連載の約半年後東京に転勤し、溜池周辺をうろうろしていた。残念ながら、その頃は歴史の話は一切縁が無い生活だった。あの頃この本を読んでいればもう少し東京になじめたかもしれない。

 他には、アメリカ大使館敷地は江戸の定火消しの御役屋敷だった。氷川神社の由来、大久保利通が襲われた清水谷公園と江戸上水道の遺跡、高橋是清の生い立ち。今の青山一帯は、以前読んだ「街道をゆく4」の丹波篠山の青山一族の土地だったことなど。

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