司馬遼太郎 街道をゆく20 中国・蜀と雲南のみち

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街道をゆく20 中国・蜀と雲南のみち 司馬遼太郎 街道をゆく20 中国・蜀と雲南のみち
 週刊朝日1982年3月から9月掲載。中国の旅2回目。まずは、三国志で有名な蜀。今の四川省です。前巻の江南地方よりは、日本史とつながりが少ないせいか、さすがの司馬遼太郎でも筆の勢いがあまり無いような感じがします。

 その中で、感動したのは、成都の西北にある都江堰(とこうえん)という紀元前2世紀に築造された巨大ダム構造。川の中に人工の中州を作って流れを内、外に分け、治水と灌漑の役割をもたせたもの。その「ダム」が今でも存在すること。これはグーグルマップでもちろん確認できます。

 三国志と言えば、劉備と諸葛孔明のいわゆる「三顧の礼」と「天下三分の計」。司馬遼太郎は、その会談の際、二人はどのような言語で話したのか?と考える。標準語はないので言葉のみで天下三分の計を説明するのは難しく、おそらく紙に文章として示しながら説明したのではないかとしている。そして、その当時中国では紙の文化が普及していたことを指摘している。その劉備が孔明に託した遺言や、死後の孔明の政治と最後。盛唐の詩人杜甫が成都に一時住んでいたことなど。

 雲南は、漢の武帝時代に「西南夷」と呼び制覇しようとしたが果たせず、この地が中国の版図に入るのは元になってから。しかし完全に中国の一部になったのは今の中国になってからという。「夜郎自大」という言葉の成り立ち。「四時如春」の雲南。気候温暖で稲作をするこの地の少数民族が日本人に似ていることから、日本人祖先の一派ではないかと感じている。

 武帝時代のものとして発見された滇(てん)王の金印と、福岡県で発見された倭奴国王の金印との類似。明の初期に10万人規模で南京から漢民族を強制移住させたこと。省都昆明に近い「滇池」湖畔で明の大航海者鄭和が生まれたこと。その鄭和はイスラム系の宦官であったが、雲南省生まれの鄭和が宦官となり永楽帝から大遠征の提督に選ばれたこと。

 雲南省には少数民族が多いが、司馬遼太郎が訪れたのは省都昆明だけだったのでほぼ漢民族が主流を占めていた。イ族は多いが、その家が漢民族の影響を受けた作りだったのでどうやらがっかりしたようだ。

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