週刊朝日1979年7月~10月、1982年10月~12月連載。タイトル最初の神戸・横浜散歩は、新しい町だけに「街道をゆく」的な歴史的内容がほとんどないので省略。「芸備の道」がよい。
芸備とは、安芸と備後で、今の広島県である。安芸といえば毛利だが、まずは、他の浄土真宗系宗派とちがい、領主と争うことがなかった「安芸門徒」。領民に対し温和な政治態度をとった毛利元就の内政感覚がよかったことよる。また、このあたりに民話がほとんど残っていないのは、浄土真宗が念仏による救いだけが重要で、それまでの民話的なものは否定されたことが原因らしい。
広島市街から20キロ北上すると日本海と瀬戸内海への分水嶺に行き当たるという不思議な位置。現在の広島は文化的に瀬戸内海だが、古代の北部地方は出雲文化圏だった。
毛利元就の居城だった吉田町までの道沿いに、幕末維新で活躍する長州藩士の姓(桂、福原、国司、入江)が地名として連なっている。つまり長州藩士のルーツなのだ。関ヶ原敗戦後、山口に移転させられた際、家臣団のほとんどが知行も扶持をもらえなくて、百姓になってでも移り住んだ。そのことが幕末の長州藩の身分を超えた結束の強さになっているという。
元就の居城はこの吉田町北部にある郡山城。200mほどの山全山を城塞化した。尼子氏との戦いでは、領民もすべて城の中に入れ籠城し、周防の大内氏から援軍がくるまで堪え忍ぶという戦法。あまり格好良くないが、この考え方は「朝鮮山城」といい隣の国で有名な戦法らしい。
郡山城は毛利氏が広島へ移り、さらに山口へ移されて忘れられ、ついには島原の乱のあとの幕府政策で、叛徒に利用されないよう全くの廃城にされた。
元就は次男だったが、幼少の頃に両親が他界し、父広元の側室だった「大方殿」に育て上げられた。まだ毛利家を継ぐ前の話で、地味ながら中国地方に一大基盤を築く、元就の成長にかなり影響を与えたらしい。
吉田からさらに北上し、三次(みよし)に入る。ここで司馬遼太郎は、読み方の特異なこの地名の由来について考え、元は朝鮮語由来の「水村(ミスキ)」ではなかったかとしている。三次盆地には広島県内の1/3の古墳が集中しており、古代朝鮮半島からわたってきたタタラ衆による製鉄が盛んだったらしい。この三次は山中の盆地で、湿気が多いので肺結核など病気にかかりやすい土地だった。徳川時代になって広島の浅野本家からこの三次に分家が作られたが、代々の当主が病気で若死にするので直轄領にせざるをえなかったらしい。