雑誌「丸」編集部編の「写真 太平洋戦争」シリーズ全10巻を読みました。太平洋戦争の経過が、10巻にわけられて多くの写真付きで解説されています。あくまで事実経過説明を主体としているので素直に読めます。
昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日まで、約3年9ヶ月戦われた日米の戦争。当初は米軍の準備が整っていなかったこともあり、日本軍の連戦連勝だったのが、昭和17年6月のミッドウェー海戦、8月の米軍ガダルカナル島占領あたりから坂を転げ落ちていき、最後は、沖縄戦の悲劇、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦で幕が降りたわけです。
基本的な国力差で、どうやっても戦争として勝てる見込みはなかったのに始めてしまったわけですが、今回特に感じたのは、以下に掲げる技術力の決定的な差です。
1) 米軍は日本海軍の暗号を完璧に解読していた。これにより事前の対応(待ち受け作戦)などができた。
2) 零戦への対応は、不時着零戦を回収し、米本国へ運んで動作可能にして、徹底的な分析を行った。これにより零戦の弱点を見つけ、かならず2対1のチームで零戦と戦う戦法に徹した。零戦の機動力を上回る戦闘機をどんどん新開発・生産して、豊富な搭乗員を活かして、操縦技術も戦争後半は日本軍を上回るようになった。
3) レーダー技術をどんどん改良し、艦船や飛行機、潜水艦に装備して、日本軍の動きを事前察知できた。
4) 艦船には、対飛行機用の防御用高射砲や機銃などを厳重に装備し、日本機の攻撃を弱体化した。後半には、VT信管というセンサー付きの高射砲弾を開発し、日本軍機を打ち落とす確率がきわめて高くなった。
5) B29という大型爆撃機で日本軍の迎撃できない高高度から日本本土を爆撃できた。焼夷弾の開発は、日本の都市を焼き払うのに威力を発揮した。
6) 原子爆弾の開発と使用。日本軍はそのような爆弾が開発され、実用化されつつあるという情報すらほとんどなかった。
第7巻にある「マリアナ沖海戦」(昭和19年6月、空母部隊がほぼ壊滅)と、10月のレイテ沖海戦(戦艦武蔵沈没)以降は、日本海軍の組織的戦闘はできなくなり、サイパン島の占領により、B29が使用可能になったことから、日本の敗北はほぼ決定的になった。
昭和19年10月フィリピンでの特攻作戦を皮切りに終戦時まで、物理的効果はほとんどあがらないのに、9ヶ月にわたって体当たり攻撃(特攻)が繰り返された。第9巻によると、海軍で特攻出撃290回、出撃機数2,370機。陸軍で1,185機とのこと。最初は零戦などが使用されたが生産が間に合わないので、最後はただ飛べるだけという練習機や水上機も使われた。
第9巻では、B29の出撃回数や機数表が掲載されているが、多いときは1日500機が出撃している。最初は高高度からの工場狙いの爆撃だったが、カーチス・ルメイという司令官に代わってから、焼夷弾攻撃にかわり、東京大空襲のように、日本の主要都市が焼き払われたのである。前の司令官は焼夷弾攻撃を実行しなかったことで更迭されたのだ。ある意味このルメイが日本全土を焼け野が原に仕立て上げた張本人と言える。彼はきわめて好戦的人間だったようだ。
ルメイはその後、朝鮮戦争、ベトナム戦争と空軍爆撃方面の責任者をしている。そして悪名高き白人優越主義のアラバマ州知事ジョージ・ウォーレスとコンビで大統領選に出たらしいが、当然落選した。そのルメイが、航空自衛隊設立に功績があったということで、1964年に勲一等旭日大綬章を受けたというのだから驚いた。日本政府には、誇りというものがないようだ。
第10巻には、爆撃で破壊されたが、終戦後放置されていた艦艇の写真が掲載されている。爆撃された当時のまま空に向かっている機銃などの写真に、日本海軍の末路の寂しさがただよっている。