司馬遼太郎 街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻

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司馬遼太郎 街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻 週刊朝日1985年1月~7月連載。まず、「嵯峨散歩」。
 京都(山城国)と丹波国の境にある水尾。清和天皇(850~80)は27歳で退位後僧になり水尾にかくれた。天皇その人の事跡は歴史に残っていないが、その子孫が源を名乗り武士団の棟梁になったことで、清和源氏と称したことから名が残っている。徳川幕府が天皇家と外戚になり後水尾天皇としたのも清和源氏の流れを意識したのか。
 桂川、大堰川、保津川は皆同じ川である。地域によって呼び方がかわる。水尾に多く生えているシキミ(梻)という木の話。
 5世紀初頭に朝鮮から大規模にわたってきて嵯峨で栄えた秦氏のこと。保津川を舟が往来できるようにした角倉了以とその多能な家系。高瀬川の名前の由来。夢窓国師と天竜寺と漱石の「虞美人草」。渡月橋の命名逸話と江戸幕府による嵐山周辺の「公園化」維持と明治維新による荒廃などなど。

仙台・石巻
 伊達藩は肥沃な穀倉地帯のおかげで米ばかり作る単純な経済だった。そのせいか幕末まで古風な藩運営が続いた。工芸品の多い加賀藩との違い。伊達政宗が作った貞山堀は現在でも残っている。王朝時代、仙台地域は宮城野と呼ばれ歌人たちがあこがれた。仙台で学んだ魯迅と「藤野先生」。長岡半太郎に代表される東北大学の学風。米沢から移ってきた伊達政宗と大崎八幡宮の関係。多賀城遺跡と大野東人の関係。塩釜神社では石灯籠を寄進した思想家「山片蟠桃」について考える。松島では芭蕉が奥の細道でなぜ松島の句を残さなかったのか考える。石巻では政宗の命で北上川の流れを変える大工事をした川村孫兵衛。

 この巻も例によってグーグルマップとストリートビューを見ながら読んだ。この地域の海岸近くは東日本大震災による津波被災地域なので、いまだ被災の後が残されており心苦しい。塩釜の記述にあるオカマサマという塩を炊く鉄釜を祭った御釜神社も津波被害に遭ったがどうやら復興したらしい。また、江戸時代賑わった港には海の様子を見るための「日和山」(ひよりやま、*日和見主義の語源)があった。石巻にも海岸のすぐ近くにあるのだが、こちらは山というくらいなので津波はかぶらず市民の避難場所になったとのこと。

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