戦艦武蔵。大和と並び、基準排水量63,000トン、全長263m、幅38.9m。46センチ主砲を持つ世界最大の戦艦だった。九州から棕櫚が消えることから始まる、吉村昭の「戦艦武蔵」は武蔵の誕生から最後までを描いた名作。
武蔵は、三菱重工長崎造船所にて昭和13年3月29日起工。其の建造は極秘で、外から見られないように厳重な秘匿作業と監視・警戒が行われた。携わる者はすべて事前に思想調査が行われ、作業に従事する際に誓約書を書かされた。
建造作業を目隠しする棕櫚縄を作る際、原料の棕櫚を大量買い付けしたので九州や四国の漁業界で漁具に必要な棕櫚が調達できなくなり問題となった。少年製図工の図面焼却問題など。
昭和15年11月1日に進水したが進水式も進水後の擬装作業も徹底して秘匿。進水式も1000人の作業員以外は30名程度。警戒要因は1,800人。防空演習日として外出抑制。港内の航行禁止。進水後に港内で水位が50センチ上昇。対岸では1.2mの高波というのがその巨大さを示す。
昭和17年8月5日就役。昭和18年1月トラック泊地入港。2月連合艦隊旗艦となり、山本長官が移乗。4月18日山本長官戦死。6月横須賀帰還。天皇行幸。昭和19年2月トラック泊地が空襲され使用不能になる。横須賀に戻り、パラオに向けて出向2月29日パラオ着。3月27日パラオ空襲をさけるため出航後魚雷攻撃を受け、修理のため呉に戻る。
6月19日マリアナ沖海戦敗戦後、呉に帰港。7月石油をもとめてリンガ泊地に移動。19年10月運命のレイテ湾突入作戦。10月24日米軍機の攻撃によりシブヤン海にて沈没。被害担任艦としての武蔵の沈没だったが、大和などの艦隊は結局レイテ湾突入せず。
武蔵の乗員2,399名中1,376名生存したが、その後、内地への帰還途中やフィリピンでの戦闘に振り向けられたりでかなりの数が死亡。最終的に生き残ったのは400人程度のようだ。建造に当たっては膨大な作業があったのだが、世界一の主砲は実戦で役に立つことはなかった。壮大な無駄だったと言える。
そして今年2015年3月、マイクロソフトの共同創始者ポール・アレン氏の探索作業でシブヤン海に沈没した武蔵が発見され、映像公開。感無量。発見を機にこの名作を再読した。