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物語中、鹿の王とは、天敵に追われている鹿の集団から、1頭だけ残り、身を挺して天敵から集団を逃す役割を担う鹿のこと。
今回初めて市立図書館から本を借りました。この3年ほどBOOK OFFで100円本を購入し、PDF本にして読むことにしていましたが、買いすぎてしまい一生かけても読めないほどたまってしまいました。それでもBOOK OFFで本を探すのは楽しいので、良いものが見つかると、まずは県立と市立図書館の蔵書検索をかけ、蔵書に無いものだけを買うことにしました。早くこの方法しておけば良かったと後悔しています。
太平洋戦争のなかで、唯一無傷で撤退に成功したキスカ島守備隊。その撤退を決断し実行させた司令官が樋口李一郎中将。
この人は、日本軍指揮官、特に陸軍の中では異色の経歴を持つ人です。ポーランド駐在武官、ハルピン特務機関、陸軍参謀本部第二部長、千島・北海道方面軍司令官などを歴任。ソ連との国境オトポールでユダヤ難民の救出援助(この本では2万人という数字になっているが実際にはそんな規模ではなかったらしい)、ノモンハン停戦や汪兆銘との交渉、アッツ島守備隊玉砕後のキスカ撤退決断など。さらには、直接ではないにしても、終戦直後の千島列島占守島でのソ連軍との戦いなど。
ヒューマニズムにあふれた人です。クーデターを計画する軍部若手将校からも尊敬されていましたが、本人はあくまでクーデターには反対。東条英機らの戦争拡大路線にもあくまで反対。北方専門だったのでソ連からは戦犯逮捕要求が出たそうですが、世界ユダヤ協会が積極的に働きかけ、逮捕させなかったそうです。
「坂の上の雲」の秋山兄弟のように、もっと小説の主人公になってもいい人だと思いますし、ドラマ化してほしい人です。ひょっとしてなってるのかな? いずれにしても、今年の読書を締めくくる、とてもよい作品でした。
大城立裕の小説「琉球処分」を読みました。明治8年から12年にかけて行われた琉球王国を正式に日本支配下に組み入れる日本政府の活動、いわゆる「琉球処分」の描写です。読んでみて非常に考えさせられました。
松田道之を実務者とした日本政府側の動きや、琉球側の受け入れ派、反対派のいろいろな動きを見事に浮き彫りにしています。ただ、すでにペリーらの黒船は日本に先立って琉球にきていたのに、琉球側の当時の考え方は、こんなにも国際情勢や技術発展などに疎かったのか?と感じました。著者が琉球側描写を単純にしすぎている感じはします。
いずれにせよ、今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」と同時期で、比較して見ることで、日本全体では幕府、各藩とも最新の知識や技術を仕入れることに躍起になっていた時期、琉球側は旧態依然として、ほとんど何の対策も行っていなかったことは実感しました。
その時期の中国や朝鮮が陥っていたのと同じことだったのでしょう。あきらかなのは、日本は江戸時代で身分制度はあっても、士農工商の各身分ごとに、文化や知識が蓄えられてきたのに、中国、朝鮮、琉球は民衆の側に、この面でほとんど何の力もなかったことでしょうか。
そして、「琉球処分」により完全に日本国に組み入れられた沖縄は、いろいろな面の上からの押しつけに、唯々諾々と従わざるを得ないこととなり、最終的には、太平洋戦争末期の沖縄戦の悲劇まで招いてしまったと感じました。
1988年4月~8月 週刊朝日連載
この巻前半、阿波の国は題材が豊富。まずは淡路島から。淡路は江戸時代蜂須賀家の領地だった。蜂須賀家から淡路を預かった稲田氏は、小六の同輩だったらしいが、明治の廃藩置県では士族扱いされず、明治3年にかなりの流血を伴う稲田騒動がおきた。
明治政府や大学などの招聘を拒否し、徳島で医は仁術を実行した幕末の名医「関寛斎」。テグスの利用による一本釣りを広めた堂浦の漁師たち。第1次大戦時のドイツ人捕虜たちとの交流。阿波を拠点に5代も京にいながら天下人になれなかった三好氏の話。藍染めの手法を確立した藍師たち。京のフリュウ(風流)から影響を受けた阿波踊り。古い町並みが残る脇町。
吉野川沿いに進み池田では、三好氏につながる小笠原氏と孫子の兵法にいう衢地(くち)について考える。屋島の合戦で敗れた平家の一隊が土着した祖谷の地。一種の農奴である「名子」が明治までのこっていたとのこと。祖谷地方の谷にかかるかづら橋。
後半は紀ノ川流域(和歌山県)。まずは、根来寺。高野山から追放された「覚バン」により始められ戦国期には大勢力になったものの、天正13年(1585年)秀吉に攻められ炎上。ネゴロは、木地屋集団の地形の呼び方からきたと考える。根来塗り(漆器)の話。覚バンは新義真言宗で、空海の密教に浄土思想を加えた。種子島への鉄砲伝来時に根来の杉乃坊代表者が種子島で鉄砲を取得し、持ち帰り製造を始めた。 藤堂高虎が築いた和歌山城。紀州の地侍連合の「雑賀党」と雑賀鉢(兜)。 天皇家、出雲の千家氏とならび日本最古の家系とされる紀家。
当時女学生を引率していた仲宗根先生は摩文仁の海岸で、一部の女学生といっしょにかろうじて生き残った。彼の記録や同じく生き残った女子学徒の手記をまとめた本である。生々しい記録は悲惨な戦いを、これでもか、これでもかと伝えており、読みながら何度も涙した。亡くなられた方々にただただ合掌。
本の表紙画像は沢口靖子が主演した1995年の「ひめゆりの塔」の画像からとられているようだ。
NHKシルクロードシリーズ全12巻ついにローマに到達。第6巻以降はブログに載せきれませんでしたが、今回は最後を飾ってブログ掲載。
1979年から1984年あしかけ5年間にわたるこの取材は画期的でした。私は途中からテレビ放送は見なくなっていましたが、こちらは30年かけて一応読了です。この最後の巻はトルコからローマにかけてなので、いまや情報としては新鮮さはありません。
ただ、巻冒頭で、井上靖、司馬遼太郎、陳舜臣らこのシリーズに登場した作家たちの座談会内容が掲載されているのは、私の収拾本重要作家の3氏であること、また、今年(2015年)1月に陳舜臣氏が亡くなったことと合わせて感無量。
このブログもなかなか更新できませんが、シルクロードシリーズでブログ未掲載分は、読み返して掲載していきたいと考えています。未掲載分の中東や、ソ連部分などを読んでいると、この30年間の激変ぶりには驚かされます。
特に、イラクとシリアは、許しがたきイスラム暴力集団(ISIS)に蹂躙されており、多くの犠牲者が出ているのみならず、このシリーズに登場した遺跡群は今まさに破壊されつつあり、今更にアメリカが怒りにまかせてフセインのイラクを滅ぼしたのが悔やまれます。アメリカの責任は重い。
戦艦武蔵。大和と並び、基準排水量63,000トン、全長263m、幅38.9m。46センチ主砲を持つ世界最大の戦艦だった。九州から棕櫚が消えることから始まる、吉村昭の「戦艦武蔵」は武蔵の誕生から最後までを描いた名作。
武蔵は、三菱重工長崎造船所にて昭和13年3月29日起工。其の建造は極秘で、外から見られないように厳重な秘匿作業と監視・警戒が行われた。携わる者はすべて事前に思想調査が行われ、作業に従事する際に誓約書を書かされた。
建造作業を目隠しする棕櫚縄を作る際、原料の棕櫚を大量買い付けしたので九州や四国の漁業界で漁具に必要な棕櫚が調達できなくなり問題となった。少年製図工の図面焼却問題など。
昭和15年11月1日に進水したが進水式も進水後の擬装作業も徹底して秘匿。進水式も1000人の作業員以外は30名程度。警戒要因は1,800人。防空演習日として外出抑制。港内の航行禁止。進水後に港内で水位が50センチ上昇。対岸では1.2mの高波というのがその巨大さを示す。
昭和17年8月5日就役。昭和18年1月トラック泊地入港。2月連合艦隊旗艦となり、山本長官が移乗。4月18日山本長官戦死。6月横須賀帰還。天皇行幸。昭和19年2月トラック泊地が空襲され使用不能になる。横須賀に戻り、パラオに向けて出向2月29日パラオ着。3月27日パラオ空襲をさけるため出航後魚雷攻撃を受け、修理のため呉に戻る。
6月19日マリアナ沖海戦敗戦後、呉に帰港。7月石油をもとめてリンガ泊地に移動。19年10月運命のレイテ湾突入作戦。10月24日米軍機の攻撃によりシブヤン海にて沈没。被害担任艦としての武蔵の沈没だったが、大和などの艦隊は結局レイテ湾突入せず。
武蔵の乗員2,399名中1,376名生存したが、その後、内地への帰還途中やフィリピンでの戦闘に振り向けられたりでかなりの数が死亡。最終的に生き残ったのは400人程度のようだ。建造に当たっては膨大な作業があったのだが、世界一の主砲は実戦で役に立つことはなかった。壮大な無駄だったと言える。
そして今年2015年3月、マイクロソフトの共同創始者ポール・アレン氏の探索作業でシブヤン海に沈没した武蔵が発見され、映像公開。感無量。発見を機にこの名作を再読した。