50)読書の最近のブログ記事

奇跡の教室
 東大合格者数日本一を誇った灘校。私には全く縁がない世界だったのですが、意外なところでつながりました。

 中勘助「銀の匙」の世界を、中学課程の3年間かけて教えた先生がいたのです。新聞でこの本の紹介を読み、すぐに注文しました。その先生は、橋本武。

 教科書使わない、3年もかけて一冊の本しか勉強しない。いったいどんな授業だのか興味津々でした。「銀の匙」に出てくる当時の生活風俗や、古典文化世界を、常に脱線しながら、実際に味わってみたり、遊んでみたり、研究してみたりという授業だったようです。

 「銀の匙」は、確かに脚注がすごく、一語一語脚注で確認しながら読み進む感じでした。この本の著者、伊藤氏貴が書いていた思いますが、大学時代の原書講読の雰囲気のおもしろバージョンですか。

 おそらく灘の生徒だからできることとは思いますが、それにしても毎回脱線用の?いろんなプリントを用意したはずなので、大変なことだったろうと思います。

 そのような教師の熱意と日本一頭のよい子供たちが結びついて、このような授業ができたのでしょう。私自身の中学時代には全く考えられない内容です。

 私は何十年もかけて、ようやくこの教室の初期段階にたどり着いたと思いますが、それも奇跡かも・・。こんな授業があったということで、ちょっとうれしく感じました。

街道をゆく7
 街道ゆく第7巻は、甲賀と伊賀の道、大和・壺坂みち、明石海峡と淡路みち、砂鉄のみち。週刊朝日1973年5月から7月、1974年12月から5月連載されたものです。

 まず、印象に残ったのは、「大和・壺坂みち」で取り上げられている高取城とその城主であった植村家のこと。

 徳川幕府のなかでも古参の家柄だった植村家だが、2万5千石の小大名にしかならなかった経緯がおもしろい。
 家康が天下を取る以前の徳川家で、主君や関係者に凶事があった際、植村家の当主が偶然その場に居合わせることが多かったらしい。

 その植村家の居城である高取城は、標高583mの山城で、現在は石垣しか残っていないのだが、2万5千石には分不相応に壮大な規模だったようだ。
 石垣はかなり残っているようで、Web検索すると相当の記事や写真が見つかる。なかでもおもしろかったのは、CGで再現された高取城だ。奈良県の山の中に、こんなすごい城があったのは見物だったろう。

 「砂鉄のみち」は、この巻の白眉といえる。出雲や美作という中国山地の中で、砂鉄から鉄を精錬する製鉄業が古代から盛んだった。
 その跡をたずね、朝鮮半島から渡ってきた人たちがどのような形で日本に製鉄技術を
もたらし、盛んになっていったか、に思いをはせる。

 「山林一町歩で、鉄が10トン」つまり、鉄を作るには膨大な森林資源が必要な古代の製鉄。中国山地のほとんどの山を所有していた?という、明治期まで製鉄業をしていた田部氏の話。

 製鉄に必要な山林が豊富でなおかつ復元しやすい日本では、鉄生産が増え、一般農民まで鉄製農具が普及し、山林が復元しにくい中国や朝鮮半島にくらべると、生産力が上がり、必然的に商品経済が旺盛な社会になった。

 明治期以後の日本の発展と、他のアジア地域の停滞を考えるときに、この鉄の生産による社会状況の違いが、どのような役割を果たしたかについて、司馬遼太郎は非常に興味を持っていたようだ。

 なお、この巻からPDF化したものを読んでいます。これからの読書はほとんどPDF化したものを読んでいくことになるでしょう。

街道をゆく6 沖縄・先島の道
 街道をゆく第6巻 「沖縄・先島への道」。週刊朝日1974年6月から11月にかけて連載。

 街道をゆくシリーズのうち、唯一我が沖縄県を旅したものですが、他の地域に比べると、退屈な内容だったというか、異質でした。

 このシリーズは、司馬遼太郎の豊富な歴史知識から出てくる話題が楽しいのですが、明治以前の日本史に登場することがほとんどなかった沖縄には、いかに司馬遼太郎といえどもそのようなネタがないのです。

 ということで今回登場するのは、漁師やお店の人、運転手など途中で出会った人々に関する話題がほとんど。

 唯一の歴史話題は、先島地域に残されている倭寇の遺跡と、倭寇が先島地域に及ぼした影響について。これは参考になりました。

 最近ほとんど考えることのなかった沖縄の歴史を思い起こすきっかけになったことは収穫。

街道をゆく5 モンゴル紀行
 街道をゆく第5巻は、週刊朝日1973年11月から1974年6月まで連載分、モンゴルの旅である。
 司馬遼太郎は、大阪外国語学校蒙古語部卒業なのでモンゴルにはひときわ愛着があったが、この旅がはじめての旅だったようだ。

 彼が訪れた時期は、モンゴルとの正式な国交がようやく始まったばかり。当時のモンゴルはソ連に次ぐ世界2番目に成立した社会主義国として存在しており、ソ連のハバロフスク、イルクーツクを経由してしかいけない遠い国だった。

 前半は、経由地のハバロフスクやイルクーツクの状況、旧ソ連の旅行関連サービスの悪さなど、スリルに富んだ状況描写と、遭遇した人々とのやりとりを歴史視点もからめて描写。

 一番面白かったのは、ゴビ砂漠の項。ウランバートルから飛んで、降り立った飛行場は草原のまっただ中。果てしなく続く草原やゴビ、パオ、ラクダや馬の放牧、満天の星空。一度見た人の顔は忘れないというモンゴル人の特徴をはじめ、案内をしたツェベックマさんという女性との文化の違いを感じさせる会話。
 このあたりを読んでモンゴル旅行がしたくなった人は多いだろう。

 現代の文明装置グーグルマップでモンゴルの航空写真を見ると、首都ウランバートルは近代都市だが、郊外部を拡大して見ると、塀で囲まれた中にモンゴル伝統のパオと思われる形が見える。

街道をゆく4
 第4巻は、週刊朝日1972年10月~1973年5月まで連載。洛北諸道、郡上・白川街道と越中諸道、丹波篠山街道、堺・紀州街道、北国街道とその脇諸道と、近畿・北陸のみちです。

「洛北諸道」では、江戸中期に現れたスタスタ坊主(願人坊主)、鞍馬寺と関係があったらしい。また山伏の行う呪術(法)で火の玉が浮かび上がったのを見たことがあるなど。
 大悲山峰定寺(ぶじょうじ)という寺をたてた鳥羽天皇(上皇)が歴代天皇中、一番自分勝手なことをしたらしく「悪王」であるが、中国や西洋の王様から比べると可愛いものだとしている。
 幕末に山国郷に隠れ地下工作を行っていたらしい長州人「河内山半吾」のこと。その山国郷にある北朝の光厳天皇など3代の御陵のこと。とくに後土御門天皇という人は、応仁・文明の乱により、悲惨な宮廷生活だったらしい。
 しかし、室町末期におけるなし崩しの中世的諸体系の大崩壊こそ(フランス革命に相当する)社会革命に相当するものだったかしれない、としている。

「郡上・白川街道と越中諸道」では、郡上八幡の領主だった歌人東常縁(とうのつねより)が、歌を贈ることによって、奪われた領地を取り戻せたという逸話が印象的。
 白川谷では、今昔物語に出てくる、猿の生け贄にされそうになった僧の話。富山県側の五箇山地区の村上家が天正6年(1578年)建造ということで、「この民家をつくった大工たちは、織田信長と同じ時代の空気をともに吸っていたということになる」という感想が印象に残りました。


「丹波篠山街道」では、明智光秀の居城亀山に本部をおいた「大本教」の弾圧。弾圧を指示した検事総長の平沼騏一郎は、官吏でありながら、右翼団体「国本社」の総帥であったというでたらめさ。昭和10年当時はそれが許される時代だった。
 京都の近くであったことから江戸時代戦略的にこの地域には、2,3万石の小大名がおかれていたこと。篠山城主の青山家が、藩邸がおかれていた東京の青山の地名に残ったのみ。
 立杭(たちくい)という焼き物の里。

「堺・紀州街道」では、大阪夏の陣(1615年)で焼き払われた堺の当時に思いをはせる。中世末期に自由都市として栄え、中国、東南アジアに光芒を放っていた当時をしのばせる姿はのこっていない。

「北国街道とその脇海道」では、琵琶湖の西岸の海津から敦賀までを最初にたどる。渤海国との朝貢貿易や、幕末の水戸天狗党の最後の様子など。
 木ノ芽峠という難所にかけて、越の国(北陸3県)出身の継体天皇や、柴田勝家と秀吉の争いなどが紹介されています。

P.S.
 敦賀市のホームページを見ると、今は松本零士のアニメキャラクターが通りを飾っているらしい。


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